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宝塚作品を外部で上演するということ(グレート・ギャツビー感想)

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グレート・ギャツビーを観てきた。
ギャツビー自体は好きな話だし(宝塚版ギャツビーは昔映像で観たことがある程度で記憶は薄く、原作既読・映画版も見た)久々の小池修一郎のオリジナル演出、今や売れっ子の井上芳雄を主演に据えてまでの新作扱い、音楽も書きおろしということできっとイケコの気合の入った作品が見られるんだろうとわくわくして行った。
観劇後の感想は率直に言うと「キャストと衣装は最高、脚本は大幅に期待はずれ」。

先に良かったところを書く。
井上芳雄のギャツビー、圧倒的な歌唱力が生かされていて耳が幸せ。よしおのコンサートを聴きに行ったと思えば満足。ポスタービジュアル発表の時点から宝塚感がすごいと思っていたけど、本当に男役15年って感じだった…顔が小さくて足が長い!
ねね様は発光する美しさと清楚さ。お歌も音域が合っているのかとても安定してた。
まりおくんは相変わらず上手いしAKANEさんとのデュエットは聞き応えあり。ブギャナン役はじめ男性陣の役作りがしっかりしていてお歌もよかった。
二つの光る輪をメインにした演出はおそらくメガネの看板を意識しているのかな。観客が目撃者とされている感じ。映像とかもうちょっと頑張って欲しかったけど、まあ、シンプルで良かった。
そして衣装はとてもとても良かった!やはりあの時代の作品の見所のひとつだよね。どの場面の服も髪型も写真でゆっくり眺めたいくらい素敵だったなぁ。皆さん着こなされていた。

ここから脚本演出への不満を書き連ねるので、ギャツビーよかった!!!という方はご覧にならないように。

宝塚の演目のひとつとして観ていれば、普通に感動した、上手く宝塚風にアレンジしていて良かったと言っていたと思う。けれど米文学「偉大なるギャツビー」の舞台化作品を観に行ったと考えると、正直、相当ひどい出来だと感じた。
個人的にここまでストレートに「ひどい」と言ってしまうことはなかなか無い。よく考えるとイケコの輸入物以外の外部演出作品ってほぼ観たことがないから、宝塚の中では良作が多い演出家だと思っていたけど、外部作品に転換する技術がこんなに無いのか…とがっくりきてしまった。
井上芳雄を主演に据えた最新作、いずれは代表作にとまで謳っておきながらまさかあそこまで宝塚そのままにやるとは思っていなかった。
なぜ、宝塚で再演、ではなく外部で新作として上演することにしたんだろう?脚本はあまりにも同じだったし、曲は新しく書き下ろす意味を感じなかった。(正直、個人的には一度で耳に残る曲がない…)イケコがしたいことが本当にわからない。
演出も宝塚のコピー、メイン女優は全員元宝塚娘役でメイクも演技も現役時代に寄せていて、まるで宝塚の演目の男役だけ生身の男性に演じさせたものを観ているようで、ずっと違和感があった。普通に宝塚で再演するか、シカゴのように男性も元男役で揃えて上演すればよかったのに…それでも十分チケットは売れただろうに…。


宝塚の何かが外部に比べて劣っているというわけでなくて、宝塚の中でだけ通じる「男役の美学」を一般の世界に当てはめてはいけないということを痛感した。
宝塚の男役トップ至上主義やコンビ純愛主義はこれまで様々な原作を大幅に改変させてきた。
宝塚では主人公がどんな残忍な人殺しや犯罪者であっても「そうならざるを得ない」背景や過去を強調したり付け足して観客が愛してしまうようにするし、主人公が複数人いるような作品でもできるだけトップが目立つように、なんなら女性が主人公の作品であっても勝手に男役が目立つように話や性格まで変えてしまう。
どんな略奪愛でも一夜の遊びでもコンビは運命の恋として描かれるし、女を泣かせまくるジゴロは「心に寂しさを抱えている」で済まされるし、心変わりされる元恋人や配偶者はかなり悪役として描かれるし、性描写はカットしまくるので純愛に見える。
とにかくトップは正義でありトップコンビの関係性を美しく見せるために世界は存在する。しかし40人近くいる組子全員にも何かしらの出番は与えないといけないため、登場人物が5人くらいしかいない原作であっても必要以上に部下やら家族やらの設定が増え、群舞や街の皆さんの歌うシーンなどが盛り込まれる。モブ役のはずだが全員美しい。そして三・四番手くらいまでの男役スターには見せ場となる場面をひとつずつくらいは用意した結果、本筋のストーリーはあまり目立たなくなり「とにかく格好良い人の歌い踊る姿をたくさん観られる」舞台ができあがる。
宝塚はいいんですそれで。全然問題ないんです。それが観たくて行ってるんだから。
でもね、日生劇場で、あまりにも有名な原作をひっさげて、これだけのキャストを揃えておいて、それをそのままやっちゃ駄目だろう。

今回の一番の問題はギャツビーとデイジーのキャラクターと、2人の関係の描写にあると思う。これは根本的な脚本レベルの話で、2人の役作りが悪いわけではないと思う。

井上芳雄のギャツビーは、あまりにも大人で冷静で、危うさがなかった。裏社会で生き抜いてきた人間ではあるのだろうが、ずるいことを色々とやってきたというよりは普通に勤勉な努力家という感じ。デイジーのことしか見えないあまりに形振り構わない感じもない。常に待ちの姿勢で紳士で大人。
ギャツビーはデイジーへの一途な愛と目的のために手段を選ばない残忍さ、紳士然とした態度と満たされない思いを抱く子供のようなアンバランスさが魅力なのではないかと思うのだけど、闇の部分がない。
そしてデイジーもまた、あまりに清純で罪の無い女性に描きすぎている。

ねねちゃんは本当に美しくて気品があって一人の男が身を滅ぼすのも納得する佇まいだったけど、全く邪気がなく、ただただ「初恋が実らず結婚生活も不幸な悲劇のヒロイン」として描かれていて、「あれ?この子かわいいけどもしかして悪女かも?」と思わせる要素がない。
私はデイジーのしたたかさがギャツビーという作品の軸のひとつだと思っていたので、「ずっと会いたかった初恋の彼に会えた」という描き方には拍子抜けしてしまった。デイジーがギャツビーと不倫関係に陥るのは、単純に寂しいから、ちょうど良いところに思い出の彼が現れたから。要は現実逃避だ。彼女は純粋で素直で、確かにギャツビーのことを一度は本当に好きだったのだろうけど、彼のように自分の命はおろか安定した生活を捨てる勇気もない。裏の顔を持つギャツビーを信じるより、自分と娘の安定を選ぶ。当然だけど。原作では保身のため、自分の罪を被って死んだ男の葬式にも現れない。数年後にはギャツビーのこともきっとすっかり忘れているか、夫婦仲が悪かった時の火遊びくらいの記憶になっている。そもそも再会するまで覚えていたかも怪しい、と私は思っている。夫の浮気に気付き不安定な時に青春の日々を思い出して燃え上がっただけで、ギャツビーのような執念はない。
でもこれはデイジーが悪人だというわけではなく、「大衆」とはそういうものなのだ。そういう虚しさが描かれているのが「偉大なるギャツビー」だし、だからこそ裏社会に生きながらも精神的には対極の「一途な愛」を貫くギャツビーの哀れさが際立つのではないか。
ギャツビーをひたすら美しく描くのは宝塚でやればいい。外部でやるからには、宝塚では描けないその一歩先、男の愚かさ、命を賭けた愛ですら何も残さないという残酷な現実を描くべきではないのか。

二人の関係についても、出会いのエピソードを変えたり、過去を美化しまくっているのはまあ解釈の幅ということでまだいい。しかし比重が過去の思い出描写に傾きすぎていて、肝心の再会後の交流がほぼカット。すみれコードが存在するのか?と思うほど、庭の再会のあとの2人の場面はほぼない。宝塚なら「この二人は結ばれるべくして再会したんです」で全て納得するけど、そういうわけにはいかない。ていうか庭の再会も原作に即してないし、どうしてああなったのか本当に疑問だー。。

キャストが本当に素晴らしく、皆さん誠実な役作りをされていたからこそ、東宝でしか見られないものを作ろうとしていない演出家の怠慢を感じてしまった。正直、宝塚ファン、役者ファンに甘えすぎではないかと思った。観客の脳内補正に頼り過ぎだよ。
いろいろと書いたけれど絶賛している人もいるし、単純に私の好みに合わなかった、そして私はこの作品が求めている観客ではなかったというだけの話で、宝塚作品の外部上演はこれから気をつけようという反省です。そういえば昔、安蘭けいさんが退団後すぐに出演されたアイーダ(王家に捧ぐ歌の焼き直し)の時も似たようなことを言っていた気がする…でもあれはトウコさんを観に行く作品だったしそこまで何も感じなかったのだな。今回もよしおをトップスターに置き換えて、彼の歌声を堪能し美しい死に様を見せてもらう作品だと思って行けばこんなにもやもやしなかったのかもしれない。